鶴見川にタマちゃん現る

アゴヒゲアザラシのタマちゃん

アゴヒゲアザラシのタマちゃん

8月25日、鶴見川に、アゴヒゲアザラシのタマちゃんが登場しました。初認は矢上川合流点の鷹野橋付近。翌朝は綱島バリケン島脇の東急鉄橋の橋脚のテラスで休息しているところを、京浜工事事務所綱島出張所の所長さんに発見され、その後は、上手の新羽橋附近と鷹野大橋の間を往来しましたが、31日には姿を消し、9月12日、横浜港に注ぐ帷子川に現れ、ついで大岡川、帷子川と行き来し、10月10日現在なお帷子川周辺にいるようです。

タマちゃんの一週間、鶴見川はファン殺到と報道の嵐に見舞われました。川辺には連日千を越す人々が詰めかけ、タマちゃんを追って上流へ下流へ大移動を繰り広げました。炎天下の鶴見川の岸辺を、これほど多数の人々が嬉々として歩く光景は空前絶後と思われました。しかし報道は「全国で3番目に汚い川」という一点に焦点を合わせました。餌はあるか、病気になるぞ、激ヤセだ、果ては「このままじゃ死ぬ。タマちゃん早く逃げて」などという一面報道(日刊スポーツ8月27日)も登場。鶴見川の水をペットボトルに汲んで、「全国ワースト3位」を強調した報道陣の殆どは、その流れにハゼやボラやテナガエビが賑やかに暮らし、干満の潮のリズムに合わせて移動しているなどと、まずは思ってもみない様子でした。事情を知るTRネットメンバーは日々憤怒に悶えたことでしょう。一連の騒動を振り返り、タマちゃんと鶴見川をめぐる大きな疑問に、すこし対応しておきたいと思います。

タマちゃんはだれ?

タマちゃんはアゴヒゲアザラシの若雄。北極圏周辺に棲む極北のアザラシですが、日本列島にもごく少数の出現記録があります。タマちゃんは自然に南下してきた個体というのが専門家たちの解釈ですが、輸送や飼育が係わっていないと断定できるか、明確ではありません。自力で北極圏に帰る力があるか、これも専門家の明解な説明はなし。海外の情報にアクセスしたい人は、学名のErignathus barbatus、あるいは英名のbearded sealで検索を。

餌はあったのか

鶴見川中流のテナガエビ

鶴見川中流のテナガエビ

タマちゃんの遊泳した区間の鶴見川には、ハゼやボラやテナガエビがたくさん暮らしています。同区間は、潮汐に従って海水が侵入と後退を繰りかえす「感潮河川」であり、タマちゃんは潮汐にしたがって移動する魚やエビをたくさん食べていたと思われます。タマちゃんがそのご訪れている大岡川でも、帷子川でも、事情は似ていると思われます。

「全国ワースト3位」は本当か

タマちゃん報道に頻繁に登場した、「鶴見川は全国ワースト3位」という言葉は、あるいはこれは2重の意味で大誤解を招く表現です。

第一に「全国ワースト3位」は「全国の川すべての中でワースト3位」という意味ではありません。全国には国が管理にかかわる一級水系が109水系指定されています。昨年の例では、それらの水系から166本の一級河川を選び、それぞれの川ごとの事情にあわせて測定されたBOD値を相互に比較したところ、鶴見川の値(下水処理場に囲まれた下流部分の測定値だけです)は下から3番だったというのが「ワースト3位」の内容です。

全国には数万に上る膨大な数の河川があります。それら総ての中で鶴見川は3番目に汚れた川という意味では全くありません。

第二に、指標とされているBODという値が問題です。下水処理水の流入する都市河川は、この値では正確な汚染評価は難しいという専門的な意見もあります(私もそう思っています)。通常のBODは、川の水を一定時間一定温度に置いたとき、どれだけ酸素が減少するかを測定して得られる値です。普通の水なら、この場合の酸素の減少は、溶液中に含まれていた有機物が、バクテリアや微小生物によって摂取され、酸素を利用して分解される(つまり炭酸ガスと水になる)ときに消費される酸素量に相当します。この場合、BODは、水中に溶けていた有機物の量、つまり有機物による汚染の程度を指標することになるわけです。

しかし、鶴見川のような都市河川では、条件がまるでことなっています。鶴見川の河口部は、流れる水の過半が下水処理場から放出された水であり、その中には、人の暮らしに由来するアンモニアのイオン(アンモニウムイオン)や亜硝酸のイオンがやや高い濃度で含まれています。しかも下水処理場や河川の流れの中には、それらのイオンに酸素を付ける(その結果、亜硝酸や、硝酸のイオンが形成されます)ことによって暮らしのエネルギーを得ているバクテリアが暮らしておりますので、川の水を放置すれば、こちらの回路でも、溶存酸素の量は減少してゆくことになります。鶴見川を含む河川で汚染の指標として通常使用されているBODは、微生物による有機物の摂取・分解による溶存酸素量減少(C-BOD)と、アンモニアや亜硝酸の酸化による溶存酸素量減少(N-BOD)の、両方を含んだ値なのです。鶴見川のような都市河川の場合、下水処理場から放出される処理水は多量の窒素化合物を含んでいますので、測定されるBODの内容は、かなりの部分が、N-BOD ということになるかもしれません。同じBODの値であっても、そのほとんどがC-BODという場合と、大きな部分がNーBODと言う場合では、水質の汚染の内容がかなり違うのかもしれません。

ちなみに鶴見川の下流は、高いBOD値にも関わらず、ハゼやアユやウナギがたくさん暮らします。生きものの多様性で評価すれば、案外豊かな生物多様性を支える川という感じも強いのです。同じBODの値であっても、その大きな部分がNーBODである場合は、表面的な数値示唆するほど、水生生物に厳しい汚染とはなっていないのかもしれません。もしそうだとすれば、下水の流入する都市の川と、人口密度の低い地方の河川の汚染を、同じBOD指標で較べるのは、実は難しいのかもしれませんね。水質研究の専門家たちの、立ち入ったアドバイスを期待したいと、思います。

ついでに、もう一つ。タマちゃんが泳いだ感潮河川部分の鶴見川は、上げ潮時には川底に海水が侵入するので、実はタマちゃんは川の中にいながらほぼ海水の中を泳いでいた可能性が高いのです。

というわけで鶴見川の水質は「全国ワースト3位」という宣伝は、誤解のもと。鶴見川全体が日本の数万の川の中で3番目に汚いのでもないし、タマちゃんは日本ワースト3位の「死にそうな水」の中を泳いでいたわけでもないのですね。

見守るか保護するか

生態学者として冷静に判断すれば、自然にまかせるのが良い、ということかと思います。ただし、タマちゃんの由来がなお不明であること等を考えると、保護は絶対なし、とも言い切れません。状況を総合的に判断して、ということになるのでしょう。報道も冷静になっており、タマちゃんも健康そうでもあり、河川/港湾関連の事業や仕事に大混乱がなければ、1、2年、東京湾にすみつくことも、ありうるでしょう。

 

綱島バリケン島

綱島バリケン島

タマちゃんの登場は、都市の市民、報道、行政と都市の水辺、都市の川の関係を基本から再考させてくれる絶好の機会を提供してくれているようにも、思われます。真夏の炎天下、タマちゃんを追ってもくもくと川辺を歩く大人や子どもたちの幸せそうな顔を忘れません。あの子ども達の記憶に住み着く鶴見川は、紋切り型の報道の「ワースト3位」の川ではなく、川面に真夏の太陽のきらめきを受け、水辺にゆたかにヨシが茂り、水鳥も行き交う、なんだか幸せな川、「タマちゃんの訪ねてくれた川」なのではないか。それは、タマちゃんのくれた、大きな希望なのかもしれません。

 

岸由二・TRネット環境PJ/慶應大生物教室
TRネット通信Vol.7 (2002.10.21) 掲載より

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