ワーストの呪縛から解放されるためには、そもそもワーストランクの設定が必要なのかどうか、考えてみることも重要でしょう。水質ランクを重視する思考は、全国の川を一律の基準で評価して、水質の良い川は励まし、水質の悪い川については行政・企業・市民の改善努力を促すという主旨なのだろうと思われます。しかし、全国の川の水質が最悪の状況を脱しつつあり、ワーストワンとされる鶴見川も、実はアユがたくさん棲む川であるという状況になったいま、はたして従来と同じ思考による水質ランキングの発表を続ける必要があるのかどうか、そろそろ疑問がでてよいだろうと思われます。
大きな理由の第一は、ランキングによって全体の水準を引き上げるという目標は、工場排水の規制や下水道の整備などの基本方式の形成で達成する定式が成立したように思われることです。時間、予算、市民意識の向上等の課題はもちろん残っていても、ランキングによって序列を意識させる方式が今後とも大きな成果を上げてゆくと期待される状況ではなくなってきたと、思われます。
理由の第二は、逆効果に関する危惧があることです。今後の川づくりは行政だけでなく、市民・企業などの広汎な協働によってすすめるほかなくなっており、地域や市民の川への<愛>の深さが決定的な要素となる可能性が高いと思われますが、ワーストランクの発表は、市民や企業の川への関心や愛を高めるより、むしろ川への距離感、川への関心の低下を促す可能性が高いと、危惧されます。たとえば、下水処理場とも共存してゆく他のない典型的な都市河川・鶴見川の下流部は、四万十川や石狩川の水質を達成するはずのない川です。極端な言い方をすれば、たとえワーストランクが上位であっても、水質の絶対的な水準において、ハゼが暮らし、アユが上り、人びとが賑やかに水辺で憩える川となれば、相対ランクを永遠に問題にされるべき理由はないということでしょう。
川を、それぞれの個性にあわせて大切にする、それぞれの個性に合わせて目標をたて大きな協働で<よい川>にしてゆく時代がはじまっています。ワーストランクの相対評価はその時代を、むしろ阻害する方式なのではないでしょうか。